第二九回更新分(2011.02/05)
『鍵』





 夜が更けつつあった。
 湯浴みを済ませた三人が、浴衣に下駄姿で、庭の火を囲み、黙然と座り込んでいる。
 傍目には、乙女三人、夏の夜に花火でも楽しんでいるのか……というのに似た風情である。しかしそうではなかった。
 三人の双眸は、殊に琥珀色に揺らぐ凛の一対の瞳は、いつにも増して真剣なものであったし、誰もが、一言も発しなかった。
 花火遊びにしては、それは如何にも張り詰めすぎ、その気配は今も厳粛を極めている。
「失せもの探しならうちの専売特許やな」
 エンタープライズ捜索作戦が開始されると、まずはエリスの所在について見当をつけねば……ということになり、自称陰陽師のタマゴの少女・瑞鳳は、張り切って儀式の支度に取り掛かった。
 儀式には、カメの甲羅が必要であった。
 瑞鳳は、昼間のうちに筑後を連れて屋敷より出で、
「いざ突撃!!」
 日暮れ近くには目的を果たし、どこで手に入れたものか、甲羅を持って戻ってきた。
 いま火の中で燃えている、焼け焦げた黒い塊が、その甲羅である。
 瑞鳳は、甲の中心に穴を開け、その周囲に授業用の彫刻刀で、十二の方位を刻みつけておいた。
「焼けば、甲羅が割れる。ヒビの入り方で、方位が分かる」
「なんだか、急に話が胡散臭くなったじゃないですか。ホントにそんなことで分かるんですか」
「モチロン。甲羅で方位が分かる。方位分かったらあとは距離や。うちらとエンプラが今どのくらい離れてるか。方位と距離が分かったら、エンプラの居場所はバッチシ分かる。な? リクツは簡単!」
「で、その距離はどうやって出すんですか?」
「ズバリ、三角測量や」
「さんかくそくりょう?」
「そうです。三角測量です」
 筑後は、白に矢絣模様の浴衣の衿から、ずいっ、と無骨な八分儀を取り出し、それを片目に当てて、凛に向けた。
「私たちの位置、私たちの星の位置、エンプラさんの星の位置の関係で、私たちとエンプラさんの距離が今どの程度かを、割り出すことが出来るのです」
 瑞鳳は天球図を広げ、筑後に見せて、星々を指差しながら言った。
「今日のうちらの星はこれ。エンプラの星はこれや」
「分かりました。では早速……」
 筑後は八分儀を空に向け、構えた。何も見えない。
「何も見えない」
「そりゃそうですよ」
「なんでや、瑞鶴」
「だって曇りですもん」
 星の瞬きどころか、月の影すらない。日暮れ後から、空は隙間なく雲が垂れ込めていたのである。
「どけ! あの雲どけ!」
 瑞鳳は地団太踏んで叫んだが、そんなことでうまく立ち去ってくれる雲ではない。
「妖術でどかせばいいじゃないですか」
「あほか。孔明サンじゃあるまいし、うちそないなこと出来へんもん。それに、うちは妖術使いやのうて、ほーじゅつ。東西南北、四方八方、方位方向、風向風速……そんな感じや」
「いったいどう違うんですか?」
「うるさいなあ。もう話さへん。違いのワカラン女子高生とは」
 瑞鳳の術力で、どこまでの術が可能で、どこからが不可能なのか、凛にはとんと見当もつかなかったが、どうも瑞鳳や筑後の話し振りから察すると、もし星の光が見えてさえいれば、天文で相手の居場所を探ることは、瑞鳳にとっては
「造作もない」
 程度のレベルの技らしい。瑞鳳たちの世界では、一体どういう技倆の格付けがされているのか……。
「……剣術における技倆の段階は、三つに分けて、『守』『破』『離』だといわれる」
 凛は、かつて楓の語った言葉の一端をふと思い出した。剣術、武芸を志す者の三段階。白木綿の胴着に包んだ背中をこちらへ向け、楓は言った。
「『守』は、自らを守るに足る技倆の者。『破』は、能く敵を破る者。そして、『離』」
「……『離』?」
「『離』とは、悟りだ。『離』の境地に至った者は、」
「どうなるんです」
 楓は振り返る。精悍な横顔が肩越しに覗き、その澄んだ瞳が動いて、真っ直ぐに凛を捉えた。
「すべてを悟る。そして自ら、戦いを離れる」
「戦いを……」
「むっ!」
 八分儀を構えた筑後が、夜空を見上げたまま、突然声を挙げた。
「あれは……なんでしょう」
「どうしたのん?」
「赤と青の光が。動いて見えます」
「赤と青? 星か?」
「違うようですよ。一定の速度を保って進んでいます」
「貸してみ!」
 瑞鳳は、もぎ取るようにして八分儀を筑後の手から奪うと、自らそれを空に向けた。凛と筑後は他にすることもなく、ぽかんと瑞鳳を見つめている。
「ふむ、ふむ……。ははぁ」
「どうですか?」
「ふーむ。あれは星やないなぁ。ありゃぁどうも、飛行物体」
「飛行機ですか」
「いや。あれはもっとデッカイ。三千トンから五千トンぐらいの大型飛行船、もしくは海軍の飛行戦艦か……。赤青の光は、衝突防止用のサインと見た」
「飛行戦艦? そんなのがいま上に来てるんですか……。どこへ行くんでしょうね?」
「分からへん」
 そのとき、硬い物が裂けるペキッという音が短く響いた。火中の甲羅の上に割れ目が入っている。その方位を見て、瑞鳳が言った。
「海の方やな……」

 胴体と両翼に大きな日の丸マークをつけた、海軍の二式空中警戒飛行艇が、機長以下五名の乗員を乗せ、四基の二重反転ターボプロップエンジンの軽やかな唸り声とともに、館山の水上機基地を離水したのは、今からおよそ三十分ほど前のことだった。
 元々は離島間輸送・長距離旅客用に設計された大型飛行艇で、全長二八メートル、両翼間の全幅三八メートルという巨体とペイロードを活かし、従来の任務のほか、様々な用途に使用されていた。護衛総隊では磁気探知機と対潜誘導魚雷二本を搭載した駆潜艇型、連合艦隊では超音速空対艦ミサイルを積んだ突撃型に改造され、厚木の防空司令部は回転式多連装銃架を上向きに搭載した斜銃型を独自に試作、保有していた。しかしその中でも、貨物室と客室を改装し、電子戦装備を積み込んだ空中警戒型の機は、搭載する電算機が高価なことから十機のみ生産され、その指揮権は日吉の海軍総隊司令部が直率した。この機は、その十機の中の一機で、「くなしり」というコールサインを持っている
 虫の目のようなガラス張りのコックピットでは、輝度を淡く調節した計器類の光が、ぼんやりと闇の中に浮かび上がっていた。
「なんだ?」
 ヘッドセットをつけた電子戦士官の少尉が、わずかに身を乗り出し、左耳のレシーバーを押し当てて言った。
「トランスポンダが自動応答している」
「なに?」
 操縦士の機長が振り向く。
「相手は誰だ」
「不明」
 直後、自動印字機の駆動音が高まり、印字機内の大小さまざまな機械が素早い動作を始めた。トランスポンダが交わしたやり取りが白紙の上に文字として刻み付けられてゆく。
『われ飛行艇「くなしり」、館山基地所属機、大日本帝国海軍、目的:軍事機密』
 敵味方識別装置の応答用定型文に引き続き、やや時間をおいて、送信側のメッセージにかけられた何重にもわたるプロテクトを解除して、相手側の文章が吐き出された。
『われ日本海軍空中母艦「ずいかく」、われ貴機を誰何す、所属・目的を問う』
「『ずいかく』だ」
 電子戦士官が叫んだ。
「おいでなすったぞ」
 操縦士の機長はそれを聞いて左腕を傾け、フライトグローブの上から巻いた時計を見る。
「副操、時間!」
「はいッ。十二日、二三二〇」
「記録しろ。少尉、そこから見えるか?」
「見えます。すごい。信じられないくらい大きい。なぜ電探に映らないんでしょう」
「あれだよ」
「何です?」
「人見知りさ。横につける。信号してくれ」
「諒解」
 電子戦士官は自動音声同調装置の電源コックを跳ね上げる。夜の闇よりも濃い影が座席の後ろから現れ、機の横に黒々と姿を伸ばし始めた。
「これか……」
 艦型識別表通りの優美なシルエットが空中に浮かび上がっていた。離着水用の尖鋭な艦首とカナード翼。前後のアンテナには、大小の電子装備とはためく旗旒信号、煌く軍艦旗が夜空を叩いている。艦橋の形は陸上攻撃機の操縦席に似て、装甲鈑のスリットからわずかに漏れ見える光の中から、白い海軍服を身につけた将校が双眼鏡でこちらを見ている。それを確かめてから、電子戦士官は交信装置のマイクを取り上げた。
「こちら警戒機『くなしり』。空中母艦『ずいかく』へ」
 声を吹き込むと、コックピットの後ろについている発光信号機が自動的に作動し、音声を自動認識して眩く明滅し始める。動作が正常なことを確認して、彼は続けた。
「貴艦はこちらの管制下に入った。泊地へ誘導す。着水に備えよ」
 次の瞬間、白い光芒が克と「くなしり」のコックピットを照らし出した。「ずいかく」の備える大直径の強力な信号灯が瞬き、彼らの身体を青白く包み込む。両者は音なき会話を交わした。機長は電子戦士官に訊いた。
「彼女はなんて?」
「『かたじけない』って……。機長、ケーブルを」
「諒解」
 誘導機「くなしり」が前に出た。尾部銃座を取り去ったあとに装備した有線誘導装置のケーブルが延ばされ、「ずいかく」の艦首に渡される。舳先のポケットを開けて、「ずいかく」の水兵がケーブルを艦内へ引き込んだ。『接続完了』の信号が送られる。
「『ずいかく』、暗号鍵を渡す。諒解したか」
『諒解した』
 白色灯の明滅で、「ずいかく」は静かに答えた。

 ほの暗い、海辺の小屋である。エリスは、まだそこに居た。
 ねずみ色のノースリーブに、白のショートパンツという姿である。ブラウスやスカートは、替えの下着とともに洗濯をして、古ぼけた風鈴とともに窓辺へ吊るし、干してあった。
 水道が通っていて、シャワーも使えたことは、エリスのような潜伏者にはお誂え向きだった。未使用の石鹸も、戸棚からごろごろと出てきた。食糧もあった。
 風は無い。しかし、涼やかな夜であった。零時を過ぎ、ポケベルの省電力液晶画面の日付は、八月十三日に変わった。
 エリスはそのことにも気付かず、四角い卓袱台の上に広げたウージー機関短銃の各部品を改めつつ、汚れがあれば丹念にそれを拭き取り、組み立て直しているさなかだった。
 この機関短銃はエリスが日中(ひなか)のうちに、
「ふとした偶然……」
 から手に入れたものだったが、状態は極めて良好であった。ロシアのAKシリーズと同様、二〇二〇年代末から三〇年代にかけ、国内へ大量に流れ込んだ多くの外国製銃器のひとつである。
 灯りは小さな卓上灯がひとつだけ。その光を返して、エリスの碧羅の眼は、真剣に思い詰めた色を闇の中に浮かべ、その細い指先は、冷たい鉄の感触を静かに確かめていた。
 卓には、大きな紙が下敷きに延べられてある。
 銃の部品が、その上から徐々に取り去られてゆくと、卓上灯の明かりが届き、地図の線が露になった。
 土地の区画割り、建物や所有者の名称まで、仔細にわたって描き込まれている市販の地図だが、その中にぽっこりと一箇所、空白になっている箇所がある。ただ一言、「軍用地」とのみ書かれてあった。日本海軍が核兵器貯蔵施設として使用している敷地である。
「空中母艦は核弾頭を搭載する」
 エリスは本国で教え込まれた、日本海軍空中母艦の略図面を思い出し、古代建築の柱列のような、ミサイルサイロを思い浮かべた。一隻につき十八基から二十基のミサイルハッチがあり、国防総省では、これらのすべてが核搭載多弾頭ミサイルであると判断していた。
「核兵器の輸送に携わる人員や設備は少なくない。その輸送経路を辿っていけば……」
 おのずと、日本海軍機動部隊の所在に行き着くはずである。
 だが当然、その情報は最高度の機密の中にあり、危険は著しく大きい。
 しかしエリスはもはや、それでもよい、と思いつつあった。
「それでも、いい。あいつと、もう一度会う前に……」
 エリスは死のうとしていた。
『……北部地方、日中、晴れ、のち曇り、北の風、のち、南の風。夜、曇り』
 ラジオの終夜放送が流す電子音声に混ざって、さざなみと、砲声にも似た海鳴りの音が、その背中を押していた。短く括った金髪が、時折揺れる。金属同士が擦れ合い、嵌まり込む音。
「鍵だ」
 エリスの手が、はたと動きを止めた。
 いつの日のことか……。
 幼いエリスの手のひらに、小さな鍵を置いて、かつて、スプルーアンスが言った。
「ここは、私のセーフハウスだ。これからは、お前が使え」
 エリスは、えび茶色の、うっすらと煤けた鉄の扉を見上げた。なぜだか、その扉がとてつもなく巨大に、そして重々しく見えていた。
「遠慮することはない」
 エリスはなお逡巡していたが、やがて、その縦長の暗い鍵穴の奥へ、小さな錠を差し入れた。
「そう。エリス、鍵を回すがいい。そして、開けてごらん」
 エリスは言われるまま、手首を捻り、鍵を回す。
 鋭い金属音。
 最後の部品が、銃の奥深く、嵌め込まれた。
 世界のすべてが、直線上に結ばれる。
 開錠ラインが一致した。
『………』
 突然、ラジオの電波が途絶した。
 エリスは窓際のラジオを手に取り、周波数のダイヤルを回した。しかし、どこの放送も拾えない。ふと思い立ち、ポケベルの画面を見てみると、圏外の表示が点灯している。
「しまった!」
 エリスは慌てて通学鞄を取り上げると、そのチャックを開き、無線機のアンテナを立てた。ヘッドセットを被り、ジャックを繋げると……「ツン」という音が聞こえ、次いで、凄まじい音量の雑音が、瞬時に奔流となって押し寄せてきた。
「うっ!?」
 エリスは反射的にヘッドセットを頭からもぎ取り、放り投げると、左右の耳を押さえ、
「が、ぁ……」
 膝を曲げたまま床を転がり、壁に背をぶつけて、なおも低くうめいた。まだ、鼓膜が震えている。エリスは苦しみ、のたうち、もがきながらも、一方で冷静に、一体何が起きたのかを考えようとした。理由はひとつしかない。日本側の広域無線妨害だ。
「まさか……もう開戦に?」
 エリスの脳裏にまっさきに浮かんだことはそれであった。私は間に合わなかったのだろうか? 彼女はそれを確かめようと立ち上がった。両耳をやられて、うまく立てない。エリスは二回、尻餅をついて、ようやく窓べりにしがみつくことが出来た。海は、いつもと変わらず静かだ。
 いや、そうではなかった。
 エリスはふと、不吉な気配を感じ、小屋の周囲に注意を払いつつ、そっと窓を開け、壁を背に外を窺った。階段の下を、小屋の影、足を洗う水場を、そして上空を……。
 そのとき、エリスは見た。
 巨大な翼をいっぱいに広げた空中軍艦が、屋根の上をぎりぎりにかすめ、まず艦首を覗かせ、左舷第一銃塔、主翼前縁、最大まで下ろされたフラップ、左舷第二銃塔、ピンと張った水平尾翼、六基の大型エンジンと垂直尾翼――の順に現れては消え、瞬く間に小さくなって、夜の海へと飛び去ってゆくところだった。艦尾には力強いひらがなの文字で
「ずいかく」
 と見えた。
 エリスは咄嗟に窓辺から体を離し、壁裏に隠れた。一瞬遅れて、小屋の屋根瓦が一気に逆立ち、空に向かって舞い上がり、石の川が滝となって流れ落ちるように、窓下へ落ちた。
 エリスはもう一度、窓から外を窺う。風圧と衝撃波で、窓の格子戸が外れて、なくなっていた。左手で鞄の中の双眼鏡を探り当てる一方、右手では日本語の単語学習カードに見せかけた艦型識別表を素早くめくり、しょうかく型空中母艦のシルエットを出す。「ずいかく」は、しょうかく型の二番艦にあたる、最新鋭の空中艦である。
「間違いないわ」
 沖に着水した「ずいかく」は、その堂々たる艦影をはっきりと夜空に浮かび上がらせていた。まさしく、識別表どおりの姿である。
「一体なぜ、こんなところに……」
 エリスは驚きと戸惑いのうちに、あの鮮やかな艦名板の文字を思い返した。「ずいかく」。瑞鶴……凛。
「また、あいつに助けられた……」
 ような気がした。エリスは、背後に広げていた地図を見遣る。自らが立てたその計画に、エリスは今になって身震いした。予定通り、本当に貯蔵施設へ潜入していれば、まちがいなく死んでいたであろう。一時は、本当にそのつもりになっていたのだ。
 しかし、今はもう、そんなことを考えているときではなかった。
 エリスは物干し機から素早くスカートを剥ぎ取って身につけ、その上からブラウスを纏って、第三ボタンまで下から手早く留めた。
 サブマシンガンを積めた手提げの通学鞄を肩に負い、エリスは海を見る。
 長閑なエンジン音が聞こえ、「ずいかく」に向けて海軍の短艇が走ってゆくのが見えた。両者は発光信号を送り合い、何やらしきりに連絡していた。が、エリスの存在に気付いているような様子はまったくない。
「瑞鶴!」
 そしてエリスは……洋上の「ずいかく」に向け、素早く視線を走らすと
「今夜は負けないわ!」
 一人、戦いを宣し、ドアノブに手をかけた。ひらかない。エリスは手元を見る。扉は、鍵をかけたままだった。
「落ち着きなさい、エンタープライズ……」
 エリスは鍵を開け、外へ出た。シクロヘキセンを混ぜた、鼻を突く水素燃料の匂い。そして、オゾンの香りがした。





















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