第三十回更新分(2011.10/08)
『Enterprise a Go!』





 中央管制室のメインパネルに描出された、光沢あるグリーンの海岸線に、幾つものボックスが開き、そこへ無機質な文字列と数字が、踊るように走った。
「打ち上げ準備完了。上空飛行物体なし」
「進路クリア」
「提督」
 管制席の職員が、ディスプレイの発する淡い光をバックに、肩越しに振り向いていった。その視線の先に静かに立っているのは、米国海軍少将の夏服に身を包んだ、スプルーアンス提督である。
「こうなってくると、エトロフの奴らに先を越されたのがつくづく残念ですな」
「……そうでもないよ」
 スプルーアンスは軍帽を取り、幾分か白くなった頭髪を撫で付けてから、それを被り直して答えた。
「あとはあいつ自身に任せればいい。多少出遅れても、いつかは自分で追い越していくさ。それも遠くないうちにね」
「なるほど。提督は、随分と買っているようですね。あの艦の性能を信じている」
「いいや」
 スプルーアンスは手帳を開き、その裏表紙に貼り付けたモノクロ写真に目をやった。色もなく音もなく、時もまた静止した世界の中で、今もなお永遠に生き、永遠に戦う一人の少女。その寡黙な横顔を。
「それだけじゃないさ」
 管制室は打ち上げの手順にかかった。
 これから打ち上げられようとする一個の巨艦が必要とする、すべてのエネルギーの供給源が、地上の電源施設から艦内部の発電装置へと移され、先任管制官が打ち上げの秒読みを始めた。
「Ten, Nine, ignition sequence start……」
「遅れてすまん」
 スプルーアンスは机の角でマッチを擦り、煙草に火をつけてから、壁面ディスプレイに映る、白と灰色の海草型迷彩を施された、その艦を眺めやった。今や射出を待つばかりの超光速実験宇宙艦「エンタープライズ」は、長い建造期間をともにした人類の手を離れ、今こそ果てしない時海の乱流に……人類がこの地上に留まる限り、永遠に望むことのできない世界へ、前人未踏の宙域を指して、出撃しようというのだった。
「我々の技術は未熟だった。そのために今日まで、お前には必要以上の負担を強いたが、しかしそれはけして無駄ではなかった。……エリス、こいつを受け取れ。お前にはその権利がある」
「……Six, Five, Four, Three, Two, One, all engine running」
 巨艦を支える九基の主機に火が点り、四基のブースターが地球引力のくびきを断ち切るべく、眩い光芒が湧き起こった。
「Lift off!」
 すべてこのときのために、それに関わった多くの人々の、上がれ、という期待、願い、祈りを胸に、CV-6の番号を付された「エンタープライズ」の艦体は地を離れ、艦に先んじて遥か星座のかなたに旅する、勇壮な一個の魂に手向けられた剣となって、怒涛のように発射台を叩き割り、炸裂する大気の中から、すさまじい渦を巻いて、飛び立っていく瞬間となった。
「Lift off, we have a lift off!」
「おおっ」
「やったぞ、こん畜生」
 しかし、この光景を前にしても、冷静な計算の使徒を自認するピュージェットサウンド中央管制室の面々は、まだ歓喜を爆発させるには早すぎることを知っていた。艦隊司令長官のニミッツ大将が成功を祝ったときも、スプルーアンスの表情は険しいままだった。
「おめでとう、レイ。無事に上がってよかったな」
「長官、しかしこれからが問題です。我が『ビッグE』は、日本の『しょうかく』とは五ヶ月、『ずいかく』とは三ヶ月の開きがある。我々は遅れているのですから、今後は一度の失敗も許されません」
「ふむ、でもまぁそれは何とかなるだろう。それで、エリスの調子はどうなのだね。元気にやっとるか」
「それなんですが……」
 スプルーアンスはそれに答える前に、急に表情を曇らせた。
「現在連絡不能です」
「なんだって?」
 ニミッツ長官は眉間にしわを寄せて、重ねて訊いた。
「大丈夫なのか、それは」
「打ち上げに伴う思念側の錯綜と思われます。母艦の打ち上げは成功したのですから、恐らく無事だと思いますが」
「ウーン。いやしかし、それは危ないな。もしエリスが既に向こうでやられていたらどうなる。こんな打ち上げなんぞ何の意味もなくなるじゃないか」
「はい。ですが長官、やはり心配は無用だと思います。私は信じております」
「何をだね」
 スプルーアンスは答えた。
「あのむすめを」


 天井に取り付けられた赤色灯が回転しながら、要塞の船渠へと続く通路を照らし、不吉な紅の色に染め上げていた。
「どこに行った!」
「分かりません」
 機関短銃を持った情報軍の兵士二人が、T字路の交点で出会い、話し合っているのが聞こえてくる。
「捜索は迅速に進めておりますが、見当たりません」
「すでに警戒線が破られたのではないのか」
「かもしれません。どうしますか」
「……よし。少佐の許可を得て、予備隊を捜索に編入する。貴官は、現体制のまま捜索を続行せよ。何としても探し出せ。捕まえて殺せ!!」
「はいッ」
「向こうを探せ」
 鋲を打った長靴の足音が間近に迫り、去っていった。エリスは換気用ダクトの金網をはずして、天井から静かに降り立った。ブラウスの袖を肩まで捲くり、キャップの後ろからブロンドの髪を垂らしたエリスは、サブマシンガンの革紐を翻し、鮮やかな碧羅の眼も影へ隠して、闇のごとくその居所を変えた。空中母艦船渠へと続く要塞の難所の数を、エリスは五つと数えたが、彼女はここで、そのうちの三箇所目までを超えたことになる。
 真四角に空いた通路が奥へ、暗黒の深みへと、どこまでも続いているように見えた。それでもエリスには今、不安はなかった。その闇の保つ漆黒の濃さ、絶えざる長さが、逆に我と我が身を、ほかの誰に対しても閉ざされた真理の中枢へ、攻撃母艦「ずいかく」の深奥へと、導くために用意されたのだと、そのことを彼女は知っていた。
「なぜだ!」
 死神が、走るエリスに語りかけた。
「なぜ、お前はその道をゆく」
 今、この数秒の瞬間において、世界からすべての生命が消え去り、ただこの闇の中に、神と、エリスだけが残されていた。
「わからない」
 最後の人間は、光る汗粒を幾滴も幾滴も飛ばして、神の下問に答えた。その汗粒のひとつひとつに、めまぐるしく動くモノクロームの戦いの残影が、数限りなく映し出されては消えていた。
 それは涙の粒でもあった。
 灰色の空に向かって打ち出される無数の火網の中に、四散した航空機の大きな破片が、ひらりひらりと回転しながら落下していく。機関砲弾を間近で浴び、飛ばされた片翼から膨大な炎を噴き出してよぎる低空侵入機。激しい戦いを終えて訪れた敵首都は、巨大な破壊の爪痕すら残らぬ、完全なる焦土となり、そしてその後何十年にもわたる新たな戦いが、核兵器の炸裂の光とともに始まっていた。カタパルトから打ち出されたジェット戦闘爆撃機が、キューバへ、ベトナムへ飛んだ。人間を何度も死滅させられる大量の核兵器が製造され、全世界に配備されていく。それは自身の中にも……その核の力で動く、原子力空母「エンタープライズ」の身体の中にも、あった。
 エリスは、その白い涙の粒に映るあらゆる世界の姿を、語り尽くせぬ悲しみに覆われた、幾千幾億の粒子の尾を長く長く曳いて、なお、その悲しみを知らぬ。エリスにあるものは、わずかに一個の確信であった。エリスは、この限りなく続く闇の中で、今や自ら沸き起こるひとむらの輝きとなって、他の何者よりも、音よりも速く走り抜けていた。
「私は、この道を知っている。この先に何があるのかを。この先に誰が待つのかを。あいつが、待っている」
 ニューヨークの黄昏……。
 スモッグに包まれた摩天楼と黄金の二十年代が、一瞬、闇の色に取って代わった。
 そこでのエリスは幼かったが、しかし、彼女もまた走っていた。
 車と車のあいだを、行き交う人々のシルエットを縫って、エリスは一人の少女を追っていた。黒い艶のある髪をひとつに結んだ彼女は、夕日と同じ、琥珀色の眼差しをちらと向けて、エリスとまったく等しい速度で、はるか前方を走っていた。
 手を伸ばしても、けして届きはしない。口を開いても、声が出なかった。しかし今、エリスはもう、幼くはなかった。エリスは力を振り絞り、全身を震わせて、前へと走るその背中に向けて叫んだ。
「誰が、負けるものかっ……」
 闇の中に、白い火花が飛んだ。
 粒子がコロナとともにリング状に舞い、ぐらりと傾いた巨大な物体が、ゆっくりと回りつつ、切り離された。
「そうだ!!」
 そのとき死神の声が、力強い、親しみ深い、よく聞き馴染んだ人の声に、スプルーアンス提督の声に、明瞭に変化した。
「それでいい。エンタープライズ」
 もとより、エリスに否やは無かった。
 もう逃げることはない。あいつが、凛が、いかに強く、遠く離れていようとも、かならず追いついてみせる……その激しい一念が、一時にしてエリスの心の中に、うしおのごとく殺到し、その熱は摂氏三〇〇〇度にものぼる高熱に達して、さらにうなぎのぼりに上昇を続けた。
 エリスは、なぜ自分が、そこまであのサムライの少女に心を焦がすのか、自分でも理解できなかった。瑞鶴という、あの呼び名のためだけだろうか? そうではない、とエリスは思った。エリスの心は、偉大な強敵と出会い、競い合うためにこそ出来ていた。それは壊れやすいが、しかし、不死の心でもあった。敗北を熱に変え、新たな推進力とする魂は、何度も敗北を経験しても、最後には、必ず勝つのである。
 エリスの魂は、まさにそれであった。
 そして……。
「近づいてみせる」
 このとき、彼女の最後のエンジンに火を入れた者こそは、まちがいなく、彼女……橘凛であった。
「あなたに、会いに行く!」
 虚空の彼方に遠ざかる、切り離された白い円筒形が、眩く巻き起こる、鮮烈なバックブラストの中に隠された。
「『エンタープライズ』、第三エンジンに点火。……正常に点火確認!」
 どこからか、か細く漏れ聞こえてくる英語のメッセージが、冒険者(Enterprise)の最後の心に、火がついたことを叫んでいた。
 わからないことがある。あのサムライの娘の中に。
 開拓者の魂は、その未知なるものの正体を、未知なるままに置くことを許さなかった。
「エンタープライズ」はいま、その前人未踏の海域に向け、誰も知らぬ、おのれのほかに誰もが知り得ぬ、果てしなき宇宙深部の大いなる謎に向かって、危難の空を飛び立とうとするのである。
 エリスにはもう、怖れるものはなかった。
 第二宇宙速度は、秒速にして約一万一二〇〇キロといわれ、地球の重力を振り切るための速度である。
 エリスを縛るすべての制限が、このとき初めて解除された。
「『エンタープライズ』、脱出速度に到達」
 管制室の職員の一人が、情報端末に目をやったまま、冷静な口調を保っていった。
「わたくしは、彼女のために死力を尽くした全職員を代表し、次のことを宣言する栄誉を生涯誇りに思います。『エンタープライズ』の打ち上げに成功。我々と世界の命運をあなたに、そしてあなたの命運を主に委ねます。『エンタープライズ』、よい旅を。あなたの成功を祈ります」
「これからだぞ、エリス」
 初めて歓喜に沸き返った管制室の中で、スプルーアンスはひとり、写真の中に小さく残る彼女のわずかな面影に、胸の中で語りかけた。
「お前が兇悪な世界の破壊者、殺戮者になるか、それとも冒険者という美しい名に値する、人間の世界の救済者になるか、そのすべては……今後の物語ということだ」
 スプルーアンスは席を立った。エリスはもう、スプルーアンスの想像もつかぬ、新たな戦いの場へ身を移した。しかしだからといって、まだ人間の仕事が終わったわけではない。世界はいまだ定められた法則に則って、すべての運動を正常に続けている。人間には人間の、戦いが残っているのだ。


「確かにこっちへ逃げたはずだ。誰か見た者はおらんか」
「見ておりません」
「班長殿、自分は見たであります」
「何ッ」
 捜索隊の情報軍の兵士たちは、どうしてもエリスを見つけることが出来ず、三々五々集まってきていたが、その中で水木という兵士が一人だけ、相手を見たと報告した。
「見ていてなぜ撃たん」
「女であります」
「女のスパイか」
「いや、女学生であります。女学生の制服姿でありました」
「ふざけるな」
 班長はその兵士の鉄帽を拳銃の銃把でなぐりつけると、
「こんなところにそんなイイものがウロウロしているわけがない」
 と決め付けた。
「違うんであります」
「何が違うか」
「きっと、女学生の幽霊ですよ」
「何、幽霊……?」
「この船渠の土木工事は、近所の学校の女子挺身隊も多数加わっておりますから、そのときに生き埋めになった女学生が、幽霊になっておるものに違いありません」
 そのとき、天井にはまっていた通風孔の金網が、鋭い音を立てて廊下に落ち、同時に、照明のうち幾つかが突然割れ飛んだ。
「な、なんだっ」
「どうしたんだ」
 そして、何かの声が聞こえてきた。
「うらめしや……」
「何だって?」
 班長は振り返り、ほかの兵士に訊いた。
「貴様いま何か言ったか」
「自分は、『どうしたんだ』と言っただけです」
「うらめしや、うらめしや」
「ま、また聞こえたぞ」
「班長殿ッ。やっぱり幽霊でありますよ。フハッ」
「貴様黙っとれ!!」
 そのとき突如、薄暗くなった通路の物陰から、髪の毛を三つ編みにした十二、三歳の少女が、祈祷者の白い装束を広げて、班長の鼻先にヌバッと飛び出してきた。
「うらめしやー」
「わああああ!!」
「ひええ」
「幽霊だッ」
 その登場があまりにも唐突だったので、兵士たちはたちまち恐怖に陥り、一瞬のうちに、通路のなかをただ右往左往するだけの群衆に成り果ててしまった。
「うらめしや、うらめしや」
 T字路の方からは、白い鉢巻にろうそくを立てた長髪の女の幽霊も現れ、また天井に潜んでいた、たすきがけした胴衣に袴を付けた幽霊が廊下に降りて、兵士たちに次々と当身や手刀を叩き込んでいった。
「うらめしや!!」
「ギャアッ」
「ぐえッ」
「うぐ!!」
「よし、おおかた片付いたみたいやな」
 三つ編みの幽霊……瑞鳳は、目元に描いた血の涙の染料を拭って落としながら言った。筑後のろうそくはまだ燃え尽きるまで時間がありそうだったので、瑞鳳はそのままにしておくことにした。
「正義はかならず勝つのです」
 袴の埃を払いながら凛も言った。ここで道は二つに分かれ、一方の道は照明が完全に落とされて、真っ暗になっている。
「どっちでしょうね、瑞鳳」
「せやな。よしここは一番、先祖伝来のお払い棒で……」
 しかし、瑞鳳がそれで行き先を決める前に、凛は暗く続く通路の方へ、どこへ繋がっているかも分からないその道の先へと、すでに歩を進めていた。
「瑞鶴、どこに行くのん。かわやか?」
「あの人は、こっちの道ですよ」
「なんでわかる?」
 しかし瑞鶴はそれには答えず、かわりに瑞鳳の手を取った。
「ついてきてくださいよ、走りますからね」
「わぁッ。ちょ、ちょっと待ちいな!」
 駆け出した凛の初速が、予想にはずれてあまりに速かったので、瑞鳳は転倒しそうになった。瑞鳳はあわてて筑後の腕を掴み、三人は三人ともが、次々と闇の中へ分け入っていった。筑後が頭に差していたろうそくの火は、その闇の中に入った直後、かき消えてしまった。
「これは?」
 瑞鳳は自らの身体をつつむ凄まじい加速力のなかで、その深い闇の色を見つめて、二重に走る鋭いまぶたの線を、僅かに細めた。
「なんやおかしな……?」






















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