第三一回更新分(2012.08/17)
『対決』





 この先に進めば会える、という感触があった。根拠は何もない。エリスの中にはただ直感があるのみだった。それは、電波のシグナルを辿る捜索機械が、反応の強弱を捉えてその源を探り当てるさまに似ていた。エリスの頭脳に鋭く響くエコーが、いま彼女に命じている。
「瑞鶴はこの先に居る。お前はそこへ行くのだ」
 言われるまでもない。エリスはひたすらに、その道を走った。いや、走った、という記憶だけがある。その間、どこをどうやって走り抜け、警備設備をどう潜りおおせたか、今となっては何も覚えがない。そもそも、そのような「途中の空間」が、この潜入の過程で存在したか、どうか。それ自体があやふやであった。
 だが勿論――、とエリスは考えた。そういう空間は現実に存在しただろうし、ただ単純に、自分が前に進むことに夢中になりすぎたあまり、その途中の過程をすっかり忘れてしまったのだろう、という風に。さもなければ、エリスは現実空間を捻じ曲げて、工廠内部のある地点からある地点へと、瞬間的に移動してしまったことになる。体感として似ているのは、後者であった。
 いずれにしても――。
 彼女にとり、すべてが無意識のうちに行われたことに変わりはない。
 エリスは工廠最深部のその場所に行き着くまでに、何かを意識したり、認識する必要をまったく持たなかった。そこは「第六号船渠」の銘板を付された、古びた鉄扉の前であった。
 天井の黄色い回転灯に照らされて、廊下から直角に切り込んだ幅五メートル、長さ三十メートルほどの通路の先に、その扉は開けられるときを待っている。遠くで、水の流れる音がしていた。
「ドアだ……」
 エリスはその扉に触れ、その冷たい金属の肌を、心から慈しむ気持ちで撫でた。ここに至るまで、長かった。しかしこの先に、求めていたものがあるのだ。謎に満ちた空中母艦『ずいかく』の全容を。その正体を、行く先を、そして……この私の勝利を、掴む瞬間が目前に迫っていた。
 重々しい機械の作動音。おそらくは、造船所の起重機や、大小さまざまなサイズの作業車があちらへこちらへと、忙しなく働きまわる音であろう。大型中型の攻撃用、あるいは防衛用ミサイルや、自動防禦火器の弾倉に飲ませる機関砲弾の束、艦を動かす高温高圧機関の燃料や、乗員用の糧秣まで、人力機力を用いて、艦のあらゆるハッチへと積み込まれていくさまが、ありありと見えるようであった。
 いまやエリスは、一動作でその中へ入ることが出来る。彼女は慎重に確かめたが……やはり、厳重な電子ロックなどはその扉にはないようだった。便所の扉と変わらぬ単純な錠の穴がひとつ、申し訳程度にあるのみである。勝利へと続くこのドアは、まさにこの自分のために用意され、自分が開けるためだけに、そこに存在していたのだと、エリスは思った。エリスは針金を使い、三秒で錠を解いた。
「ふふ、ふふふ……」
 ブロンドの細い前髪を手のひらで上げ、エリスは笑みを浮かべた。底光りして輝く碧羅の眼が、鮮やかな自信を取り戻し、艶やかに、妖しく映えた。汗の粒が、緩やかに顎を伝って、ノースリーブの胸元の陰に落ちる。エリスはそっと腰を落として、十本の細い指を開き、銀色のドアノブの周りを走らせると、ゆっくりと、その包囲の輪を縮めていった。勝利を確信した、誇りに満ちた面差しが、回転灯の明かりに素早く照らされては消える。
「私がちょっと本気を出せば、日本海軍なんて所詮こんなもの。作戦の規模も、目的地も、攻撃法も、すべてがわかる。あなたたちは、手も足も出なくなるのよ……」
 世界を左右する国家機密を目前に、それを手に入れられるのは自分だけ……。そうした状況を前にして、エリスの心は震えていた。酔っていたといっても過言ではないかもしれない。エリスは、今まさに歴史に残る大きな仕事を成し遂げようとしている自分と、他の娘と同じように、静かな寝間で眠りに落ちているであろう一人の少女を比較して、優越感に浸った。あのサムライの少女。一時は自分に伍し、圧倒的に超越した存在にも思われた、橘凛のことを。
 ――凛。私とあなたは、やはり、住む世界が違うのだ。あなたは所詮、ただの娘。剣術使いに過ぎなかった。多少、普通より腕が立つというだけだ。だが私は違う。私は、世界を動かす存在だ。私はいま、その力を持っている! あなたの持たぬ力を! ……エリスは最後に、次のような言葉で、この迷路のごとき葛藤に終止符を打とうとした。
「凛、私の勝ちよ。あなたにはとても、こんな業は出来ないでしょうね。私はあなたを追い越し、突き放していく。あなたの手が永遠に届かぬところへ、どこまでも無限に飛んでやる!」
 エリスは秘められた最後の門へ、今まさに手をかけた。手をかけて、開けと念じ、体重をかける。鉄鋲を打たれた重々しい城門の冷たさが、エリスの体温に染み込んで……。
 城門? そこで、エリスははっとした。冗談ではない。この入り口は門どころか、侵入者を難なく迎え入れる、単なる鉄扉であったはず。――いや、そもそもここはどこだ? 深夜の地下造船工廠だ。それならば、いま私の目の前にあるこの光景は? あたりには、夏虫の声が聞こえる。肌を撫でる夜風の感触も。それに、私の足元は砂ではないか。目の前には、何トンもあろうという巨大な日本風城門が立ちはだかっていた。エリス一人が押そうが引こうが、その門は百年経っても開きはしないだろう。
 振り向けば、雲に隠されていた満月が姿を見せ始め、月面の焦げ目も明らかに、遠い天守を、石垣を、木々を照らし始めていた。
 ――ここは、城だ。
 エリスは絶望した。策略だったのだ。私は敵の城の中に、一人閉じ込められている。エリスは自分の体内を流れる血液が、一瞬にして蒸発したような戦慄に打ちのめされた。膝が震え、表情筋が引きつり、痺れる。両足の感覚は失われ、エリスは堅牢な城門に背中を打ちつけた。大きな音が立ち、その直後、城門の左右に据えられていた二つのかがり火が、轟音を上げて燃え盛った。その中央で、何かの黒い影が立ち上り、ゆらりと動いたように見えた。
「うぐッ!」
 瞬間。エリスの身体に、銀色の棒手裏剣が何本か、雷撃のように突き立った。下半身の力が一気に抜け、エリスの視界がぐらりと傾く。まだ言うことをきく上半身をひねり、エリスはUZIサブマシンガンを構えた。震える銃口を力任せに抑えて、連続射撃。飛来する第二波の手裏剣を弾幕を張って打ち落とす。流れ弾を避ける、黒く長いポニーテールが刹那に見えた。
「だれだ!!」
 エリスは血を吐きながら、その不明の敵に向けて声を張り上げた。その相手は、凛にも似ていた。だが凛ではない。彼女の知らぬ、それは無慈悲な敵であった。エリスはサブマシンガンの銃先を左右に向けて、次々と途絶していく自らの能力を呼び起こし励まし、その敵の捜索にあたらせた。しかし、見つからない。傷を確かめると、手裏剣三発が命中、ほか身体の七箇所を掠めて、肉と血を抉り取っていた。激痛が殺到し、気が狂いそうになる。エリスはたまらず叫んだ。
「どこにいる!!」
「ここだ!」
 よく通る冷たい声が、鉄のように跳ね返ってきた。同時に、箱型弾倉を銃に装填し終わる音。敵は立ち上がった。革ベルト付のシュマイザーを提げた、背の高いスリムな女軍人。黒髪を結ったそのクールビューティーは、かがり火の炎に照らされながら、切れ長の眼を憐れみの色にして、エリスに言った。
「手こずらせたな。――どんな神通力を使ったか知らんが、ここまで潜り込んだ鼠は初めてだ。しかも小娘とは……。まぁいい。今はその運も尽きた」
 楓は、遊底をスライドさせて初弾を薬室に送り込むと、慣れた動作で銃を構え、その先をエリスに向けた。
「死ね」
 古びた工廠の奥底に、ひとむらの銃撃音が起こった。弾丸を全身に浴びて、エリスは一瞬、痙攣したようにのた打ったあと、前にのめって動かなくなった。
「あッ、殺っちまったんですか。少佐」
「案ずるな」
 楓は機関短銃を有馬に持たせると、気絶したエリスを編上靴で仰向けに転がし、武器を剥ぎ取りながら言った。
「死なない弾だ。多少、驚かせてやったまで」
「ゴム弾ですか……」
 有馬はコンクリートの床に散らばっている、非致死性弾のひとつを拾い上げた。ゴムで包まれたこの弾丸は、発射されると風圧で薄い膜状に変形し、目標を貫通することなく痛打するのだ。その威力は充分であった。銃撃はエリスを一撃で倒したが、彼女は死なず、二の腕の隙間から覗いている胸の輪郭線の一部が、呼吸に合わせて上下しているのが見えた。しかし楓は無論、人情からエリスを生かしたのではない。ここでの楓はあくまで、エリスの印象通りの無慈悲な狩人であった。
「手当てして、引っ括っておけ」
 楓は命令して言った。
「存分に締め上げてやる」


 重い目蓋の裏に、眩しい光があるのが分かる。エリスはまだ、意識を取り戻したわけではなかった。
 重いのは目蓋だけではない。全身がそうだった。身体のあらゆる組織が萎え、力を受け付けなかった。脳は自分の身体を自分の意志で動かすということ自体、忘れてしまったようである。その機能不全は永久に続くかともエリスには思えたが、実際にはそれは数秒間で回復し、身体の自由も戻ってきた。エリスはそれでようやく、自分がまだ生きていること、まだこの身体が自分のものであることを知ったのだった。
 耳も聞こえるようになった。それは自分を呼ぶ声だった。
「どうです。あきらめますか?」
 ――凛。エリスがその声の主そう意識すると、視覚は引き続いてそのように像を結んだ。
「それとも、まだやりますか」
 エリスが身体を動かそうとすると、眼前の景色が動いた。いや、実際にはそうではなく、自分が起き上がったのだ。どうやらこの自分は、屋敷の縁側の上に寝かされていたらしい。井戸と畑、庭が見える。ここは凛の家だ。気温は高いが、心地よい風がある。
「そっちこそ、臆したの」
 エリスは口を開くと、自分の意志とは関係なしに、そのような言葉を目の前の凛に向かって発していた。凛は剣術の稽古着姿で――驚いたことに、自分もまたそうであった。
「これしきのことで、勝ったと思わないで。まだまだ勝負はついていない。もう一勝負」
 ふらふらと立ち上がった自分の手に、使い古された一振りの竹刀が握られていた。凛は井戸の傍らに立って顔を洗い、水気を拭うと、桶を井戸の中に投げ込んだ。釣瓶が回り、水の弾けるくぐもった音がする。凛は振り返り、笑わずに言った。
「いいでしょう」
 二人は仕切り直して、立ち合った。エリスは来日前、米国で武術を修め、刃物での戦闘も得手といえる腕を持つが、この場に相応な日本式の剣術については、経験がない。だがエリスは気付いたときには、何年もこの道の修行を重ねた人間のように自然な所作で、凛と相対して構えていた。凛は刀を下段にした地の構えに据え、エリスは左正眼。
 時に応じて琥珀色に光る凛の瞳は、その剣とその身体がそうであるように、一度構えをつけると、その場をまったく動かなくなる。こちらが動くまでは、けして先に動くことはない。
 このまま睨み合いを続けるか、危険を承知で仕掛けるか――エリスは選択を迫られたが、どちらの道を選ぼうと、自分にとっては不利なのだと、エリスは気付いた。睨み合いでは集中力の差で、こちらの構えが先に崩れるだろう。仕掛ければ、下段の鉄壁に待ち構えている凛の刀が、返り討ちに動く。
 同じ不利なら、打ち込んでやれ――。
 エリスはそう決心し、竹刀を握る両手と、緊張して動く自分の胸に、攻撃、と言い聞かせた。一拍を置いて、エリスの身体は動いた。が、いざ凛の構えを前にすると、どうしても打ち込めぬ。結果としてエリスは、凛の構えの中にではなく、後ろへ、後ずさった。意志に反したその身体の動きに、エリスは動揺し、全身から汗が噴き出した。
 凛は瞬時に構えを正眼に直して、エリスが後ずさった分、前へ出る。エリスは下がる。再び凛が追い、またエリスは下がった。
「下がるなッ」
 凛は短く一喝し、あとは静かに、エリスへ言った。
「下がっては勝機は掴めない。ここです!」
 突け、というように、凛は左手で自分の胸を指した。打って来い、というのだった。
「よし……!」
 エリスは柄を握りなおし、剣先のぶれをぴたりと鎮めた。せわしなく響いていた蝉の音が消える。摺り足で、前へ……。わずか数センチの前進のために、エリスの心は焼かれた。砂利の動く音がして、一歩を踏み出したことがわかった。剣先がその分、前に進む。その先に立つ凛は、その距離の分を後ろに下がるようなことはない。その移動による圧迫を胸の中に飲んで、なお泰然であった。
「そのまま」
 静かにそう言った凛の首筋に、汗が流れたのをエリスは見逃さなかった。
「突け!」
 その汗粒がエリスを勇気付かせ、その言葉がエリスを押した形になった。
「ワァッ……!」
 エリスは掛声一閃、刺突の形となって地を蹴り、真一文字に伸ばした剣先を走らせ、飛んだ。何故、自分の身体がそのように動き得るのか、エリスはもはや考えなかった。その素晴らしい刺突に、凛もまた刺突で答えた。一瞬の間隙の中で、両者の剣先がクロスし、恐ろしいエネルギーが白光となって湧き上がった。弾き飛ばされたのはエリスだった。
「もう一本!」
 どちらが言ったでもなく、ただその声だけが空間上に挙がっていた。エリスは汗と土の匂いのする拳で口元の血を拭い、立ち上がった。剣を拾い、構え、飛び……そしてまた打たれた。激痛が走るが、高揚があった。二つのものがひとつになっていく。一体化の感覚と、それを快とする情感だった。
「もう一本!」
 エリスは再び剣を取り、戦った。また弾き返されるが、勝敗はもはや、埒外のことに変わっていた。あれほど敵を恐れ、敗北に怯えていた自分がどこにもいないということ。エリスには、それだけで充分だったのだ。
「もう一本!」
 エリスは霞む目で剣を探り当て、拾い、握り締めた。地面に這いつくばり、血を吐きながら、それでもエリスは、何度でも起き上がってきた。


 いくら打たれても……叩きつけられ、殴られ、蹴られ、張り飛ばされても、エリスは音を上げなかった。
「しぶとい奴だ!」
 たださえ暑い地下の一室に、今は季節とは別の熱気が充満していた。拷問にかければすぐに口を割るだろうという、楓の当初の目論見は、外れていたと見るしかない。エリスは楓の振るう痛みと恐怖に耐え、名前さえ明らかにせぬ。そのかわり、エリスは容易に気絶してみせた。そのたびに、暴力は中断せざるを得ない。時間は、恐らくこの娘に味方するだろう。楓はそれを思い、実はエリスよりもなお、焦燥に苛まれていたかもしれない。楓は自分の顔をハンケチで拭ったとき、汗があまりにもべっとりと滲み出ているのに驚いた。一体この娘は、どんな奴なのだ?
「そいつを貸せ」
 楓は、有馬が運んできた水桶の水で、ざぶざぶと顔を洗い、首筋に水をかけた。――ともかく、この娘は、かならず重大な手がかりを持っているに違いない。このような最重要施設に、単独直接潜入という、危険きわまりない手段を用いるからには、開戦を前にして、敵もこちら同様に焦り、賭けに出たのだ……。敵もまだ、我が方の最重要機密を握るまでには至っていないことになる。開戦に向けたカウントダウンは、刻々と迫っているが、それでもまだ、間に合うのだ。敵も味方も、最後の一撃を振り下ろすには至っていない。
 まだ間に合う――! そのことが、未だ如何なる失敗も知らず、天才の名を欲しいままに育ってきた、二十余歳の楓の心に、炎を呼び込んだ。
 室内に、一塊の冷水が勢いよく叩きつけられ、跳ね飛び、滴る音が反響した。椅子に縛り付けられ、何度目かの水を浴びせられたエリスは、金髪の先から落ちる水滴の陰で、ゆっくりと面を上げた。
「良い加減に白状せんか!」
 空になった水桶を床に叩きつけて、楓は言った。
「貴様の氏名は何か。所属と目的、潜入経路、潜伏期間、現在の根拠地は」
 エリスは、鼻と唇からの血で染まった口元と、赤黒く腫れた頬を歪め、にったりと笑って、初めて口を利いた。
「あたしのケツでも舐めてなよ」
 憔悴に加え、そのエリスの声の調子が、瞬間、楓の磨り減った精神から、最後の冷静さを奪い去った。殺人者の眼となった楓は、ワルサーPPKの弾丸を装填し、銃口をエリスの側頭部に押し付けて、それがこめかみにめり込みそうなほど、力任せに押し込んだ。
「虫けらの命と私の職を換えてやる」
「やめてください、少佐!」
 止めに入った有馬が、後ろから楓の胴に組みつき、拳銃を握る腕を絡め取った。
「くだらん挑発ですよ。……君、」
 有馬は水の滴るままに任されているエリスに振り返り、かなり不自由そうな片言の英語で、エリスに言った。
「我々は、殺さなくても苦しめる方法をまだたくさん持っているが、我が軍の正規の方法では、こうした拷問の必要すらないことを忘れてもらっては困るな。我々が軍公式の洗脳技術を用いないのは、単に我々がそうしたくないからに過ぎないぞ」
 エリスは黙っていた。楓はワルサーPPKをホルスターに収め、木刀を握りなおした。エリスは横目でそれを見て、さきほどの夢――恐らく、夢だろう――は、この木刀の打撃によるものか、と思いついた。道理でこちらの打突は当たらず、打たれるままであった訳だ……。しかし何故、その相手が凛である必要があったのだろう?
「お前」
 楓は膝を折り、目線の高さを同じにした。それから濡らした布で、エリスの顔の汚れを拭ってやり、前髪を分けてやりながら、彼女に言った。
「利口にならんか。お前が意地を張って何の益がある? ……私は不器用だからな。お前が強情を張る限り、怪我をさせることしか出来んのだ」
 その間エリスはじっと、楓を見ていた。その顔の諸々の特徴が、なぜか、エリスの胸に引っかかった。侮辱を許さぬ、気位の高い相をしている。他者に己を知られまいとするかのような、深い瞳の色。短く引き結ばれた唇。
 ――こいつ、どこかで……。
 会ったことがある? 朦朧とした意識の中で、エリスはおのれの記憶にそう問いかけた。いや、あるわけがない。こいつは情報軍の軍人だ。だとすれば……何故? エリスは自分の無意識の感覚に忠実でありたいと願いながらも、その理由が不明のままである現状に戸惑い、結論を得なかった。
「私にも事情がある。役目柄というよりも……個人的な理由だ。お前が話してくれれば、私もそれを果たせるだろう。私にとっては長年の願いだ。お前には協力者がいるはず。そいつは私の仇なのだ。話してくれ」
 エリスは「ふふっ」と笑って言った。
「やだね」
「何……?」
「そんな理由がどこにある? 確かにあんたが言う『協力者』らしいやつが、居ないでもなかったけどね。でも、実際に協力して何かをやったわけでもないし……おまけに、私はあんたに借りでもあったかしら?」
「お前は負けたのだ」
 楓は立ち上がり、エリスの頭を取って、見上げさせて言った。
「お前は敵に捕まったのだぞ。いまお前は捕虜だ。それが分からんのか」
「私は負けてない!」
 白い歯をむき出して、エリスは噛み付くように答えた。
「勝ったというなら……殺ってみせろ!!」
「ほざいたな!」
 楓は顔に飛んできたエリスの唾を手のひらで拭い、宣告した。
「おのれは銃殺だ、望みどおりにな。だがその前に、脳を機械にかけてやる。五分とはかからん。必要な情報をとったあと、私が撃つ。そのとき貴様は知るだろう。敗北をな。私がそれを教えてやる」
「あんた、先生でもやってたの?」
 エリスが眉間を寄せて言うと、楓はややあって、「そうだ」と答えた。
「剣術のな」
「剣術……」
 エリスの思考の世界が、そのとき、ひとつの実線に結ばれた。なぜ、この女と凛の姿が、いくたびも重なって見えたのか、なぜ、会ったことがあると思ったのか。その説明が、今ならつけられる気がした。
 ――そうか。こいつ、もしかして……。
 しかしエリスは、それを口に出して、楓自身に直接訊ねることは出来なかった。
 なぜならば……。
「むっ!!」
 そのとき、エリスは連行のために縄をほどかれて、長く座らされていた椅子から立ち上がったところだった。
 その一瞬に、すべての事件が起きた。
 その部屋を含む、工廠の一区画全域が、突如として電源を遮断され、一切の電灯が消えた。直後に非常電源が作動し、電力は回復したが、そのときにはすでに、エリスはその場から、霞の如く消え去ったあとであった。
「居ない!!」
 有馬は驚愕して叫んだ。楓はすでに廊下へ飛び出し、鋭く聞き耳を立てている。何者かが走り去る音が聞こえる。恐ろしく速い。
「有馬、隔壁閉鎖! 逃走経路を絞れ」
「はいッ」
 楓は返事を待たず、束ねた黒髪を舞い上げて走り出している。これもまた素晴らしい俊足ではある。それでも、容易には追いつけない。あれほど痛めつけられているのだから、あの娘一人のしわざとは思われぬ。誰か協力者が――そう、父を殺したあの男のような……外部の誰かが潜入し、あの娘を取り返そうと図ったものに違いない。相手は二人だ。楓はそう、目方をつけた。
 ややあって、遠くから重々しい響きと、金属の擦れる音がした。楓の命令を守った有馬が、隔壁を閉ざしたのだ。これで逃亡経路は一本となる。あとは、走るのみ。その通り、楓は全力で走った。
「待てッ」
 階段を駆け下り、駆け上がり、激しい動作の連続にも楓は息を切らすようなことはない。
「誰が逃がすか!」
 その間エリスは、自分の身に一体何が起き、何が始まろうとしているのか、考えなければならなかった。誰かが、自分を抱えて走っている。それは想像もしない人物だった。そいつはどこからか、いつの間にか、自分を迎えにやって来て、目にも止まらぬ早業でもって、あの場所から拉し去ったのだ。
「あんた……なんでこんなところに!」
「黙っててください」
 凛は、エリスの肩と太ももをひしと抱きかかえて、時折横目で後ろを振り返りつつ、光のように走っていた。
「誰か、ついて来る……。こんなに速く走ってるのに?」
「さっきの奴だ」
 エリスが呟いた瞬間、たったいま折れたばかりの背後の曲がり角に、楓の黒い影が、束ね髪の尾を引いて、サッと現れた。凛とエリスは、対岸へ渡る長い鉄の橋の上だった。そこは吹き抜けになっており、下は小型飛行艦艇の補修ドックらしい。
 楓は、黄色い回転灯のついた出入り口をくぐり、橋へ続く狭い足場に出た。傍らの銃架に立ててあったAKM突撃銃を取り、無警告射撃。フルオートで全弾を撃ち尽くす。弾雨がエリスの頬をかすめ、凛は咄嗟に素早く前転して銃撃をかわす。
 楓はそのAKMを捨て、銃架にある別の一本を取り、構えた。再び銃撃音。
「掴まって!」
 凛はエリスを支える腕を左の一本のみにし、エリス自身に右肩から左胴にかけて、組み付くようにさせた。そして右手を着物の衿に差し入れ、棒型手裏剣八本を毎秒一回、背後の目標に向かって正確な頻度と照準で投げつけた。AKM突撃銃のライフル弾と手裏剣が空中で交差し、そのままであれば凛とエリスのどちらかに命中したであろう銃弾すべてを落とし、一本は流れ弾となって楓の元にまで達した。鋭い金属音とともに、電流のような衝撃が手元から腕に伝わり、楓は短く呻いた。見ると、突撃銃のバナナ型弾倉の付け根から銃身にかけての部分に、手裏剣が鉄を貫いて突き刺さり、止まっていた。
「ばかな」
 楓は戦慄した。手裏剣の形は流派により、すべて異なる。その棒型手裏剣は楓のものと同じ、橘流のものであった。世界広しといえど、その使い手はこの世に二人しかいない。
「凛! お前なのか!」
 楓は銃を捨て、叫んだ。同時に、二人は工廠の影の中へ走りこみ、見えなくなった。
「待て!!」
 楓は蹴躓きながら、橋の上を走り出した。この橋が、なんと長いのだろう。あの影まで、無限に続いているのではないだろうか。一体、どうなっているのだ? 楓は、自分が狂ったとしか思えなかった。また、そうであれば、どんなにか良いだろう、とも。
「何故だ、凛!」
 だが楓は現実を走っていた。橋を渡り終えたとき、次のフロアへと続く通路には照明がなかった。廃棄された区画のようだ。壁は苔むし、建物の一部が崩れていた。エリスは、ドックの作りは同じだが、足場がひび割れ、橋の落ちた放棄エリアを見回して、凛に言った。
「どうするの?」
 凛はエリスを床に降ろして、手を引いた。
「飛びますよ、エリスさん」
「えっ?」
「早く!」
 凛は崩れた橋の上に、エリスを連れて歩いていった。風が、轟々と音を立てていた。崩れた壁面の裂け目から、水平線と、白み始めた海、空が見えた。
「ちょっと、ちょっと!」
 エリスは歯医者の前の子供のように、前へ向けて手を引かれながら、後ずさるように体重を運んだ。二人の目の前には歯医者どころではない、半ばで途切れ、消え落ちた橋、つまり、空間があるだけなのだ。下の海面までは、相当の距離がありそうだった。
「あんた正気なの? こんなの落ちたら死んじゃうわよ!」
「身を捨ててこそ」
 凛は肩越しに振り返り、うっすらと笑みを浮かべるや、素早くエリスを引き寄せ、脇から胴を捕まえた。
「浮かぶ瀬もあれッ」
 凛は軽く助走をつけ、橋を蹴って、そのままエリスとともに空中に飛び込んだ。
「うりゃーッ!」
「わわー!!」
 楓は、二人の影が尾を引いて飛んだのを、瞬間、目撃した。彼女はそのとき、はっきりと見た。そのうちの一人は、間違いなく、常に人生をともにしてきた妹、凛であった。楓は朽ちた足場の上から、二人の人間が遠い海面に向かって、あっという間に小さくなっていくのを見送って、拳を固め、壁を叩いた。
「おのれ!」
 そのころエリスは、建物九階分の高さをまっ逆さまに落ちていきながら、死ぬ、と思った。絶対に死ぬ。やはり、殺されるのだ。私は、こいつに!
「エリスさん!」
 その凛は空中で膝を折り曲げ、両腕で足を抱きかかえて、エリスに向かって言った。
「頭を!」
 前にのめらせろ、というポーズ。実際にやってみると、凛は忍者映画のアクションのように、落ちながらくるくると回転し始めた。そのくらいのことが何になるのだろうか。しかしエリスもそれを真似して、二人は揃って丸まりながら、回転して落ちていった。
 やがて、衝撃と着水音。水雷の命中のように二本の水柱が猛然と立ち、二人の身体は海中に隠れた。やがて、ドッドッド、という舟艇の小気味良いエンジン音。
「おおい」
 内火艇に乗った筑後と瑞鳳が、二人のすぐそばに艇を止めた。
「生きとるう?」
「ああ……」
 瑞鳳の伸ばした竹竿に掴まって、船上に上がったエリスは、甲板にぺたりと濡れた尻をつけ、ひとしきり咳き込んで水を吐いてから、瑞鳳に答えた。
「死ぬかと思った」
「まったくひどい遊園地やなぁ」
「作戦完了です」
 凛は自力で甲板に上がり、筑後に言った。
「出してください。帰りましょう」
「宜候や。針路反転、帰途につく!」
 瑞鳳の声が走り、四人を乗せた船は船首を持ち上げ、航跡をあとに、エンジン音を残して海へ去っていった。楓は、それを一人見守っている。どうすればいい……ただそれだけを考えながら。






















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